白村江(はくすきのえ)の戦い
白村江の戦いは、西暦663年2月初旬のこと、韓国新羅(シンラ)は古代中国の王朝、唐と連合を組み、百済は日本(倭国)との連合を組んで、白村江(現在の韓国の錦江河口付近)での戦いをしました。
日本(倭国)はもともと釜山近くにあった任那((임나)いな)との交流がありましたが、任那が新羅に552年に滅ぼされてしまってからは、新羅(しんら)憎しと、百済と連合を組むようになります。
また、北九州をまとめ上げていた豪族。
火葦北阿利斯登(ひのさしきたのありひと)の子、日羅(にちら)が百済の官位であったことは、『日本書紀』に記載されていて、倭王権の外交に関与していたこともあり、当時の日本王朝は百済王朝と組むことになります。当時の、高句麗、新羅は、半島をへだてた倭国をどう見ていたのでしょう。
600年代の日本(倭国)の立ち位置は、日本から見れば韓国を仏教伝来のありがたい国としてみてましたが、韓国は、プライドだけの両班(やんばん)がはびこる国、何かにつけ日本を下に見る。いい顔して日本と交流しますが実のところ韓国から見れば島流しの国。韓国より下、対等に見ようとはしていませんでした。
両班 양반 (やんばん)
文字の読める貴族階級で、儒学を学び、それ以外のことはしていませんでした。古代韓国時代の知識人で両班は両班らしいふるまいをしなければならないといった暗黙の規律もあり、日本で言う武士は食わねど高楊枝のような気品を求められてもいましたが、利権と派閥に強く執着したであろうことは、身分制度を見てもわかるでしょう。
琵琶湖湖東にある百済
結局、百済、倭国連合は、唐、新羅連合に負けて、多くの犠牲を出しますが、それと同時に何千人かの任那人、百済人が日本に逃れてきます。この時の渡来人が風水伝来のカギとなります。
日本書紀にも、天智天皇が700人の百済人を琵琶湖、湖東地域に住まわせたとあります。
こういった渡来人としてきた百済人の中には、国の地水を見る望気者、堪輿家、と言われる風水師もいました。こういった渡来人が来て以降に建てられたであろう高松塚古墳にも、キトラ古墳にも、墓跡の内部装飾に、天井には星座が、四方の壁には四神獣としての玄武、青龍、白虎、朱雀が描かれています。
当時の高麗人、新羅人から見れば百済人を受け入れている倭国は百済無い(くだらない)存在として位置づけ、倭国は、百済に無いものは無いとして、百済人は優秀であると見ていたのを見ても、韓国側から見る見方と日本から見る見方は180度違っています。
郭璞が生きた時代に、初めて風水を表し、四神を葬書に残したのが《AD276〜324》でありますそれから、何世代も超えて韓国の文明に溶け込み、百済が崩壊し、日本に少なからずも、郭璞の葬書の思想が入ってきて、皇族、貴族の墓廟にこういった。四神図が描かれたと言えるのではないだろうか
百済王氏
百済滅亡とともに韓国に残ることもできたでしょうが、残れば新羅人に罵倒され、奴婢(ぬひ)におとされ、人間以下の扱いをされるのが必然でした。敗者に希望などないというのが当たり前の世界は、勝ち続けるしかないという、深い恐怖心を植え付けます。
王家とそこにかかわる人間は、ヒ素を飲んで死ぬしかなく、毒を含み死ぬか、奴婢として生きるかでした。
特に王、貴族、眷属においては、反逆を恐れて殺される時代でした。三国時代と言われた600年代の韓国は、倍達배달(ペダル)民族 檀君星君民族としてのプライドがありましたが、負ければ非人(ひにん)でした。
そのため、倭国には、百済滅亡により、王族、貴族、官僚、下級武士、農民層もであらゆる階級がドドっとなだれ込んできました。
百済扶余博物館 국립부여박물관
韓国ソウルに行くと自然公園などに王廟があります。また、忠清南道に行くと、
百済王の墓(武寧王の王陵)が今も静かに鎮座しています。王陵の内部も見ることができて、綺麗な彩色が残っています。こういった彩色の具合と日本にあるキトラ古墳が似ているのも、古代中華で発生した四神獣図と天体図が似ているのも不思議では無いと感じます。
百済の都市は扶余(ぷよ)です。現在の忠清南道にあたります。
現在は、韓国の忠清南道(チュンチョンナムド)に国立百済扶余博物館が建っていて、景色の良い場所でもあります。
百済時代の首都であった扶余(ぷよ)の文化的資産が展示されていて、とても大きな博物館で、館内は至るところに日本語表記で案内もあります。
展示場の目玉が鳳凰の百済金銅大香炉でしょう。レプリカですが、きれいな鳳凰が羽根を広げた姿は優雅で、当時の芸術の高さを伺い知ることができます。
ソウルの景福宮は観光客がよく訪れるので知っていると思いますが、ソウルを離れて、忠清南道に行くとゆっくりとした時間が過ぎていくような場所でもあります。
さて、百済滅亡は、まさに唐王朝が新羅と手を組み 百済、倭国の連合の惨敗に終わりましたが、日本に多くの渡来人を迎え、医、易、暦、伎楽、等の技術や大陸からの文明文化をもたらし、この時代の文化として、日本文化と融合してゆくことになります。
その百済文化にも色濃く、中華風水文化が浸透していると言えるのが当時建てた城郭にあらわれています。百済は、538年に遷都(せんと)した泗沘城(しびじょう)を建設するにあたって、部巷制、羅城を築くのを見ても、風水理論をもとにした建築の中華南朝の建設の影響を受けているのは明確であるといえます。
城郭
中華南朝の城郭は地理風水としての蔵風得水の思想が色濃くあります。
戦国時代の日本の城郭は、指導者が住まう場所と言った小さくまとまった城でありますが、古代中華においての城郭は、町も含まれた大きなものでした。扶余に見られる泗沘城は、町の中に5つの部署を分けた道路を通る造り担っています。平安京のように風水を意識した造りです。
天武天皇と白鳳時代
天武天皇が、その地位に土たのが、672年 白村江の戦いが663年ですので、戦後の混乱を経て約10年後のことです。そしてこの後、686年までの14年という短い在位期間の間に、1200年続く陰陽寮を建てることになったのが、在位2年後の675年のことでした。
また同年、占星台も設置されました。これは国家上げての大プロジェクトであり、天体観測を始めていくための天文台でした。
このような陰陽寮は、明治初期まで進められ、明治政府制定後、明治憲法により、陰陽寮および、陰陽師という役職は消えることになります。
天武天皇により進められた白鳳時代における陰陽寮については、「続日本書紀」に記載され、天文生、陰陽生、暦生それぞれに学ぶものがあり、稀代の安倍晴明においても、こうした學所において学びんでいました。
天武天皇時代の在任期間において、藤原京の配置の設計、陰陽寮の設置、伊勢神宮における遷宮(せんぐう)三種の神器を決めるなど歴史上今までにないほどの変化を倭国にもたらしています。こういったことを決める背景を考察していくと、仏教にはない地理的思考が多く含まれることを観ても、風水が伝わることでもたらされた改革と言えます。
天武天皇が生きた白鳳時代は、仏教伝来とともに、渡来人が多くの文化を持ち込み、中国にも、韓国にもない倭国としての文化をきずいたじだいでもありました、。
また、天武天皇の政治は、陰陽寮だけではなく天体観測基地としての占星台を建てるなど、天候予測や、時代予測といった事柄に、まじめに、真摯に進めていることがうかがえる。
キトラ古墳と高松塚古墳
聖徳太子が、滋賀に建てた百済寺は有名です。
百済寺を建てたのち、高句麗の高僧、慧慈(えじ)、百済の高僧、道欣(どうきん)、高僧、観勒(かんろく)がかかわるほどに縁が深い場所であると言えます。
また、百済寺は当時の渡来人が集まるコミュニティであったといえます。
そのような滋賀県には任那、百済が滅亡した後、おおくの任那人、百済人が渡来し町を築いてきました。滋賀県になぜこのような百済人が入り込むのかわかりませんが、推測として言えるのは、当時の都が奈良にあり、(韓国語で国のことを나라(なら)と言います。)首都から見て東の地は青龍が住む土地となり龍は王を表す意味を持つことを見ても、
百済貴族を、奈良に住まわすこともできないので、それなら青龍の地にと言った意味を持たせて滋賀県の湖東に住まわせたのかもしれません。また、龍は水の化身でもあり、龍の吐息は水と相性が良いので、湖東は、地理的にもよかったのでしょう。
さて、こうして百済人を渡来人として迎えて、渡来人を通じて、日本には、儒学や千日文、論語をおそわることになります。それと同時に葬書や魯班尺も伝わったのでしょう。ただ、こういった帝王学にも通ずる学問であるために、深層部においては隠されたものもあり、四神相応の意味合いが、間違って伝えられていることもありました。そのため、キトラ古墳や高松塚古墳群においても、天体図や四神が見つかることで、韓国からの渡来人が伝えた四神相応の風水技法が、皇族、貴族に伝えられた秘伝の書であることが伺えます。
古事記が編纂(へんさん)されたのが、天武天皇の頃、40代目の天皇の手により作られました。人の歴史を残すというのは大変なことです。歴史を知らない国は国ではないと言った風潮は、遣隋使、遣唐使を隋や唐に送り込んでいる日本には痛いものでした。長い歴史を知ることで、我が国はこんなにも長い歴史がありますということがとても重要であったため、日本書紀と同時に天皇家の族譜が必要であったため歴史書が編纂された
飛鳥時代の風水
北九州地方における豪族。火葦北阿利斯登(ひのさしきたのありひと)は百済に我が子、日羅(にちら)を送り込み官僚として働き、百済に強いパイプを持っていたことがうかがえます。そのため、王が入る王陵(王の墓)の建築に熊本より石工が送られて、石室を築りました。
石室の構造、副葬品を造るのに火葦北阿利斯登が関わったことは、一つとして、他の両班、百済人に知らせないことが重要でした。風水で建てられた王陵は、その方位、内装における砂(さ)など帝王学の秘密があり、権力争いの種になることを恐れたのがありました。
また、倭人(日本人)としての日羅(にちら)への信用が絶大だったのと、父親の豪族としての後ろ盾があったからであると位置づけができます。
肥後地方から来た石工たちは、風水の実際を経験し、その技術は、風水技法を知る上で重要でした、ただ学問としての風水ではなく、身をもって知る風水技術学問必要でした。こういった技術は、高松塚古墳にも、キトラ古墳にも生かされてゆきます。
また、九州地方において太宰府における建設に生かされてきました。福岡県にある竹原古墳の壁画においても朱雀図が描かれている個所もあり白江村敗戦後に来た渡来人によるものか、百済に行って王陵を築いた石工によるものなのかわかりませんが、あきらかに四神獣図が起こっていることが見受けられます。
また、四神思想の伝来について、『続日本書紀』の一節に
天皇(文武)大極殿に御(おぼ)しまして、朝をうけたまふ。その儀、正門に鳥形(うけい)の憧(はた)を樹(田)つ。左は日像、青龍、朱雀の幡。右は月象、玄武、白虎の幡なり、蕃夷(ばんい)の使者、左右に陳列す。文物の儀。是に備れり
とあります。天皇みずから大極殿にて、四神の幡を建て、日月像をたてた場所を設けること自体重要であると考えて間違いなく。こういった行事は、渡来人によって伝えられた儀礼でした。
太宰府条坊 碁盤の目
白村江の敗戦後大宰府地域を守るために大宰府を設けました。「おおみこともちのつかさ」ともいいます。白村江の戦いにおいて、疲弊した倭国は思った以上の打撃を受けていましたが、大宰府に防衛線を貼らなければならないと、兵法にたけた百済亡命に両班貴族の号令のもと、対外政策 対隼人政策(南九州における呪詛部族)新羅、唐の対外防衛と3つ巴の工房を余儀なくされる中で、大宰府地域を強固に固めるための政策をする中で、太宰府条坊はつくられるようになります。
白村江敗戦後7世紀初頭より。九州北部にあって、国防と外交、九国三島の統治をおこない、律令制における地方役所としての位置を占めていくにあたり、碁盤の目の地割を行い朱雀大門を備え、平安京を作るモデルにもなりますが、このようなつくりは、白村江で戦った唐の長安城をモデルとしていました。
こうした碁盤の目に分けられ、南北に大きくまっすぐにつながる朱雀門まで通る朱雀大路を持つ城郭は、蔵風得水の理論を町に合わせて作られた技法でした。
大きく主山から流れてくる龍脈の大いなる気を玄武山を通じて町に流し、周囲い、白虎砂、青龍砂の城郭で守られ、朱雀門まで緩やかな気が流れるように組まれていました。また、このつくりは韓国百済時代の扶余の城郭の造りや平安京と同じであるといえます。
こうして、平安京より早くに、太宰府に蔵風得水の四神相応の風水都市が誕生することになります。
これは白村江の戦いにより百済貴族が渡来したこと、日羅が百済の官僚として働いていたこと、また石工たちが風水技術を習得してきたこと、百済、高句麗の高僧が時の天皇の願いを受けて動いたことなどそれぞれのピースが重なるように動き、時代を作っていくことで成立したように思えてならない。
白村江の戦いは、百済再復興の支援を求められる中で、『備中国風土記』の逸文に百済救援戦争に際して、斉明天皇が筑紫に向かう途中、後の備中国下道郡郷に2万の勝兵(すぐれたつわもの)を集め百済救援部隊として出発しました。
条坊制
長安城のつくられた制度で、南北中央に朱雀大路が通って、南北の大路(坊)東西の大路(条)を碁盤の目状に組み合わせた左右対称の都市区分。