五十にして天命を知る
君子は 天命を畏る
孔子曰、君子有三畏、畏天命、畏大人、畏聖人之言、小人不知天命而不畏也、狎大人、侮聖人之言。
孔子,いわく
「君子は三つのものを畏れる命がある。天のを畏れ、徳の優れた人を畏れ、聖人の言葉を畏れる。つまらない人間は天の意志を理解できず畏れ敬う事も無く、偉大な人々になれなれしくし、聖人の言葉を侮る。」
孔子の名前を知る人は多くいるでしょう。孔子は「五十にして天命を知る。」と天に対しての畏敬を持っていました。その孔子の教えに、五十にして天命を知るというのがあります。
孔子の思い
古代中華の人々の中には伏羲と女媧の思想以降、天を父 地を母とする思いが強く残っています。
孔子の母は、身分の低い一六歳の巫女で神に仕え祝詞を上げる存在で、天帝に使える祈祷師でしたが、父となる李武士という軍人との間に生まれました。しかし、三歳の頃、父親がなくなります。幼い子を残し、祈祷師として生きる母には多くの苦労がのしかかっていきます。そのように過ごした孔子は、のびのび生きたとは言えない幼少期でったでしょう。
自分の父の立派な軍人らしい姿と、母から受ける天帝に対しての群像を、幼い孔子は記憶していっただろうことは、推測できるのではないでしょうか。ですので、天を畏れ、徳のある貴人を畏れ、聖人の言葉を畏れた中にも畏敬の念を持っていたのでしょう。
孔子の思想には、仁と礼をベースに成り立っています。そこには巫女で祈祷師だった母からの影響を色濃くうけたのでしょう。親の愛の深さと人の愛を重ねて「仁」としました、そして、「仁」を実践する方法としての礼をつくしました。
孔子 春秋時代の思想家、哲学者 儒教の開祖
山東省曲阜の生まれ 紀元前522生誕
名は孔、仲尼(ちゅうじ)
父は軍人で孔紇(こうこつ)70歳 母は巫女、顔 徴在(がん ちょうざい)16歳
愛した。
文王は亡くなっているが、文王の礼節や仁徳は私の胸中にある話し、先天八卦の文王の礼学に深く感銘し伝統文化に多大な影響を受けていた。
伏羲 文王 孔子の3聖人によって、易道は完成した
五十歳すぎて易学に関心
我に数年を加え.五十以て易を学べば 以て大過なかるべし
孔子は幼少期、厳格な軍人戦士であった父も孔子3歳にして死別しています。また、父親がなくなったのち苦労しながら育ててくれた母も孔子17歳のときに他界しています。
亡くなった母に対し、墳墓の近くに小屋を立て朝晩の礼を拝し、3年喪に服し、礼学を独学で建ててゆきます。
一度の敬拝にも、手の角度、足の配置、亡き母や天にたいしての配慮と細部に渡る緻密さを要求して礼学を学問の高みまで上げて、礼こそが仁の表すところであると誠心誠意一拝に捧げるその姿は神々しくもあったのでしょう。
孔子が生きた時代において、先祖を敬う礼学は、儀式、儀礼として多くの人民がおこなっていたが、孔子ほど、規律を重んじるものがいませんでした。それは、人間愛と規律を建て、先祖を敬い、人を愛し、未来の国家を願いました。
そんな孔子が、五十にして天命を知るといったのは、五十歳のとき、易経に会い、易経に天命を感じたのでしょう。
孔子のターニングポイント
史誌 孔子世家に
孔子晚而喜易、序彖、系象、說卦、文言。讀易、韋編三絕。曰「假我數年、若是、我于易則彬彬矣。
孔子は晩年になって易を好み、彖の六十四卦の意味を順序立て、象の六十四卦の形をまとめ、卦を説き、文言の卦の説明を記した。易を読み竹簡の綴じなめし革の紐が三度切れた。そして言った。「私にあと数年の寿命が与えられれば、このように研究を深め、易についてよく知るものとなるだろう。
最初なんの関心も持たなかった易に対して ひとたび没頭するなら、極めてゆく性格の孔子です。
徳 礼 仁といっことを突き詰め、先生と慕う弟子たちが増えてなお、こうして易に出会い極めて行き、私にあと数年の寿命が与えられれば、このように研究を深め、易についてよく知るものとなるだろう。というわけです。孔子の教えでは、五十にして天命を知るターニングポイントに易経がありました。
伏羲が陰陽五行説の基本を見つけ出し、周の文王、周公が伏羲の残した六四卦を解明し補足 易の思想哲学をまとめ上げた功績において、孔子は、伏羲の先天八卦、周公の易学を「周易経文」として、孔子がまとめ上げました。
易の解説書「十翼伝」(じゅうよくでん)で一般に広めたことで、伏羲 文王 孔子の3聖人によって、易道は完成してゆきます。
「論語」「道徳」といった徳を立てる作法
孔子は、多くの方が知っているように「仁」を基本とした孝道。「論語」「道徳」といった徳を立てる作法を重んじました。紀元前552年に誕生し、紀元前479年なくなりました。体は、父親ににてガッチリしていて2m超えの大男でありました。
そんな孔子が、礼を重んじ廟に向かい敬拝する姿は、大男が小さな幼い子どものように小さくなるのですから、それだけで、人々は、この人は只者ではないと感じるわけです。
論語は、孔子がなくなった後、編集されたもので、そのまま弟子たちが討論し、検討し作られました。
世の中において聖人,義人といわれた人の本は多く存在します。孔子と同じ頃を生きたブッタの弟子が編集した仏典もしかり、イエス・キリストの語ったことを残した聖書もしかり、
そして、孔子の弟子が編集した論語と、今の時代に残る四大聖人と言われる 孔子 イエス ブッタの残した言葉は、後世に残るものとして今も輝きを消していません・
孔子,いわく
「君子は三つのものを畏れる命がある。天のを畏れ、徳の優れた人を畏れ、聖人の言葉を畏れる。」とまさに、天を思い 自分より素晴らしい人を畏れ、聖人の言葉を畏れたその如くが今の時代に残ってゆくのでしょう。
まごころと思いやり
孔子のいわれる言葉は、生活の中から勝ち得た言葉です。そのことが経験となり後の易の教本となる十翼(じゅうよく)にも反映されてくるのでしょう・
孔子の生まれた時代において、古代中国の天命思想 周王朝で花開いた礼楽文学 の中心に絶え仁を置いたのがうかがえます。
天命思想 コトバンクより
礼楽文学 コトバンクより
愛,忠恕 克己復礼 先難後獲
真心や思いやり許すことで己に克って礼に戻る 先に難しいことを受けて、受けることを後にしなさい。
志士仁人 殺身成仁 為生為死 先犠後喜
人の志す者は仁であり、自身を殺して仁となる 為に生きて為に死すとは犠牲を先にして
喜びは後にやってくる。
何とも、難しい生き方をしているのでしょう、今から2500年以上前に現れ、いまだに多くの人々に影響を当てえる孔子の言葉です。
よく、言葉には力があると言いますが、ただ単に文字の羅列としてではなく.艱難苦を乗り越えた人物だからこその言葉の重みが、人の心に響くのでしょう。
まごころも漢字で書くと真の心と書きます。 私たちはまっすぐで正直が一番いいと思っています。たとえ、罪にまみれた手を持っていても、心の中心にはいつも正しさを求めています。
ただ、難しいことを先にやれと言われても、ま、いいかとなります。
50代以上の人なら誰しもが見たであろう巨人の星 その一場面で、飛雄馬が家の周辺を走っている場面がありました いつものマラソンコースを走っていると あろうことか 工事していたのでショートカットして家路につくと、そこには待ってましたとばかりに眉毛の濃いいかにも頑固おやじの星一徹が、帰ってきた飛雄馬に怒鳴りつけます。 いつもの道がだめなら遠まわりをなぜしないかと激怒するわけです。
星一徹の飛雄馬に対する愛情のあらわれた場面でした。
巨人の星の、星一徹 飛雄馬の親子もまた、楽ではない道を歩み。それを陰ながら応援もするが多くの涙を流すお姉ちゃんの明子の存在も大きかったと思います。
愛,忠恕 克己復礼 先難後獲
真心や思いやり許すことで己に克って礼に戻る 先に難しいことを受けて、受けることを後にしなさい。 という生き方は日本人の私たちの文化にも深々と根を下ろしているように思えます。
君子に戒めが三つあり、貴ぶことも三つある
孔子曰、君子有三戒、少之時、血氣未定、戒之在色、及其壯也、血氣方剛、戒之在闘、及其老也、血氣既衰、戒之在得、
孔子が言われました。君子に戒めが三つある。若いとき時は血気がいまだ定まらず大いに発散する、これを戒むること色(男女の情愛)に在り。それは、周りから見ても血気はに剛(熱烈)なんだよ。、これを戒むること闘(とう)また戒めるものはケンカにあって。それでも老いたるに及んでは血気既に衰う、これを戒むること得(銭金)に在り。
つまり人には戒めるものがあって 若いときの情欲 中年期の出世欲 晩年期の財欲があるんだね。
戒めることもあるが”貴”尊ぶことも3つあります。
1。自らの日々の生活から暴慢の行動を慎み、
2。心静かに、顔は穏やかに真理を求めて、
3・野暮な言葉使いや、非道を遠ざけることだね。
こういった、ことを実践するためにおこなったのが、呼吸法でした。
二種類の礼
天に対しての畏敬の礼
情意が形式化した礼として、犠牲の才物をささげ、平身叩頭(へいしんこうとう)して、三拝九拝し、きまった祝詞をあげることにおいて、アジアの民族としては同じ様式が多く見られます。
畏敬の礼としては、対象が、神、精霊、先祖といった場合が多く、自分より崇高に高い存在に対して礼を尽くす場合が多い。
孔子の言葉としては、
郊社の礼は上帝に事(つか)うる所以(ゆえん)なり、宗廟の礼はその先を祀る所以なり
天と地にたいして行う礼は上帝(国の最高責任者)がおこなうことであり、先祖の眠る場所に対する礼は先祖をを祀った先にあるとして、天に対しての礼と先祖に対する礼は同じではないことを示しています。
また、礼をつっくして行うことは、民を導く政治に似て、整うことが必要であり、礼と徳は似たものとして示しています。これは、法治政治ではなく徳治政治をすべきであると言っています。指導的立場の人間が礼の心得を欠いて生活するならば、その職を果たすことができない。
”国を治むるには礼に似てす”というわけです。
孔子が、礼を天に対しつくすことは、地における政治を行うことと同じで、礼の教育によって、社会秩序を厳粛にして政治上の混乱や人間関係を治め和平の礼につなげる孔子の強烈な期待があったのでしょう。
孔子が、論語中に礼を尊重しながらも、しきりに礼はその形式よりも心であることを強調するのも、人の愛(仁)と礼により、徳がなされることを知っていたからである。
和平に対しての礼
戦時を終え、お互いに双方に名乗りを上げ、兜を脱ぎ、敵意を見せない行為として、目に見える対象に対し、敬意を示す礼である。お互いの心を探り合うことが多く、相互間での信頼関係にかける。歩み寄り、手を握り合い、抱き合うなど行うが、心底信頼しあうというのには時間がかかる。和平のときこそ、礼を尽くし、仁を尊び、人を求めることをおこないました。
それは、孔子自体が戦国の時代をくぐり抜け、父が国に忠孝を示したことを巫女である母からよくよく教育された幼少期の愛情を受けていたことにより示したことでしょう。戦は人の心を疲弊させます。私達の不備の生活でもあらぬ疑いをかけられ、突然どん底を味わうことがあります。
正しく慎ましく生きていれば、幸せに暮らせるということは、国が安定していても隣人関係で、あらぬ災いを受けることもたしかにあります。
しかし、孔子はどんなときも礼を尽くすことを求めました。それは、孔子が、人の1代を観ているのではなく、数百年、数千年と続く人の営みがつながっているため、礼を尽くすことで、後孫には悪いものが流れないようにするための、天の知恵でした。