古代中国と「気」のかかわり。
易経。風水でいう「気」を理解するにあたって、そもそも、「気」とは何なんだと思ってしまいます。そこで、「気」とはどのようなことか少し掘り下げていこうと思います。
「気」について最初に出てくるのは郭璞の葬書です。葬書の一節に、
葬者乘生气也。、五气行乎地中,发而生乎万物。
人受體於父母本骸、得氣遺體受廕
葬ることは生気に乘せることである。しかるに、五行のそれぞれの気は地中をめぐって、萬物を生み出しているからである。人はその身体を父母の骸骨より受け、気を得てその身体を全くして、父母の廕(たすけ)をうける。
とあります。父母を葬ることは生気に乗せること、うんぬんかんぬんと続きますが、郭璞の葬書に出てくるということは、その時代、「気」に対しての認識があったと言えます。知らない言葉でいかに書こうとも、知らないことを理解することは難しく、古代中華の子の文字文学の認識においても、「気」はあるもので、人の生き死にと関係していたことがうかがえます。
郭璞の訴える「気」は私たちの体の中にも存在しますが、山や畝を作る自然の中にもあって、その生気は、ムクロを通じて後孫に影響を与えると言っています。そして、「気」は五行の影響を受けているとも言っています。
つまり、古代中華での「気」の存在は、すべての森羅万象に存在していたと考えるのが普通で、物心(ぶっしん)両面にかかわる万物生成の基と考えるべきものとみると、「気」は、すべてに存在する生命エネルギーと言えます。
孔子と論語と気
孔子が生きた春秋時代は、周王朝後期、山西省一帯を占めていた大国である晋(しん)国が分裂し戦国のじだいになり非常に不安定な世相の中生まれました。
孔子の母は、身分の低い一六歳の巫女で神に仕え祝詞を上げる存在で、天帝に使える祈祷師でしたが、父となる李武士という軍人との間に生まれました。しかし、三歳の頃、父親がなくなります。幼い子を残し、祈祷師として生きる母には多くの苦労がのしかかっていきます。
孔子
そのように過ごした孔子は、のびのび生きたとは言えない幼少期を過ごし、父親がなくなったのち苦労しながら育ててくれた母も孔子17歳のときに他界しています。このように苦労の絶えない青年期を過ぎてゆきます。
自分の生活も国の方針もままならない時代背景を受けて生きていた孔子ですが、周王朝の基を築いた文王に多くの影響を受け、天命思想、礼楽文学と文王の道統(どうとう)を受け継いで仁(じん)を説きました。
その仁を説く中で、人の中には「気」があることを弟子たちに説いています。
孔子曰、君子有三戒、少之時、血氣未定、戒之在色、及其壯也、血氣方剛、戒之在闘、及其老也、血氣既衰、戒之在得、
孔子が言われました。君子に戒めが三つある。若いとき時は血気がいまだ定まらず大いに発散する、これを戒むること色(男女の情愛)に在り。それは、周りから見ても血気はに剛(熱烈)。これを戒むること闘(とう)また戒めるものはケンカにあって。それでも老いたるに及んでは血気既に衰う、これを戒むること得(銭金)に在り。
このように、血気というように人の体を通る気は血の道を通過してゆき、血気が定まらないと色(男女の情愛)となり、過ぎると闘気となり、衰退すると得(銭金)にいくとあります。孔子のいう「気」は人生において変化していくものとしています。これは、易経も変爻(へんこう)するように、人の中の「気」も変更することをいい表しています。これは、生命力としての「気」の変化を人の生き方に合わせて話しているのでしょう。
孟子のいう浩然の気
孔子の孫である子思(しし)の門下生に孟子がいます。孔子の遺志を継いで天敬思想、仁を重んじた人物です。
直接孔子に指針したわけではないのですが、子思の下で、孔子の言葉を良く学びました。
孟子は、非常に教育熱心な母親の影響を受け、孔子の敬天思想と仁を学ぶ中で、人は生まれながらにして、善であり、善を行うために生きているという性善説を説きました。
孟子
孟子のいう浩然の気
孔子の言葉を受けて、若いころは、血気が定まらず、性欲のままに生きれば悪を誘発してしまうので、礼を正し、仁を学ばなければならないと性善説を言う中で、人は正しく教育を受けなければ悪に傾くことを言い、人の心体の両面から、「気」を考察しています。
夫志、気之師也 気、体之充也 夫志至焉 気次焉。故曰持其志。無暴其気。既曰志至焉。気次焉。又曰持其志無暴其気者。何也。曰壹則動気。気壹則動志也。
志は気を統帥するもの。気は体に満ちているものである。志が至れば気はそれに従う。しかるに、心が集中し、志が専一であれば、気を動かし、気が統一されていれば、志を動揺させる。
「気」を治めることのできるものは志(こころざし)であって、「気」は体に充実しているものであります。志(こころざし)が最初にあって「気」はその次に来るというのですが、では一体「気」とはなんぞやとなります。孟子のいう「気」とは肉体に宿る活力を指して言っていると言えます。
心が体を動かしていることはもちろんですが、体が勝れば 心をも動かすので、体を鍛え、心を従えることもできるということを観ても、「気」は心と体をつなげている存在と見ることができます。このことを、浩然の気を養うこと、と言えます。
そこで、浩然の気を養うためには長い時間をかけて義を積み重ねることを説いています。
浩然の気
水が広く大規模に流れているさまを言います。孟子が言う気の質で正しく生きることで天地に広がる人間の内なる気で、天地と感応する天地和合の気
荘子天地之一気
孔子以降、六世紀にかけて、諸子百家の多くの思想家が誕生し、「気」に対して論争を繰り広げてきました。
孔子一門の敬天思想、仁、礼を重んじる中で表してきた「気」は、儒家思想として成熟してゆきます。
それに対し、老子、壮子は真っ向から儒家を批判し、自然に法(のっと)ることを棟(むね)としました。礼、仁ではなく徳は道に従うといい。
老子の言葉においては、「孔徳の容(よう)は、唯(ゆえ)道に従う」「徳の含むことの厚きは赤子(せきし)に比(ひ)す」
このように、徳のある人は道に従うし、柔軟なこころをもつあかごのように飾らなくとも、道に従えさえすればよいのだと解きました。
老子
壮子は、老子の思想を継承し、「気」に関しては、天地の一気、人の気、雲気、陰陽の気、六気、気母と様々な言葉で言い表していますが、一体何が言いたいんだろうと、目が点になることも多くあります。
「造物者と人と偽りて天地一気に遊ぶ。神人ありて、五穀を食らわす。風を吸い露を飲み雲気に乗じて飛竜に御して四海の外に遊ぶ」
神の存在を基本として、人はその呼吸に息吹を感じ、食物を食べ、天地に生きていることを楽しめとして、四海(よのなかのすべて)の外で遊べというのは孔子のように礼節だ技法だと堅苦しいことを向きにしていくところに、「気」の存在を見出してきました。
孔子一派と老荘思想
孔子、孟子は、伏義、文王の流れをくんで、礼、仁という技法を編み出し、「気」を表しています。また、老子、壮子は、神によって生まれ、五穀を食べ、呼吸をする人は、赤子のように道に従うことで、「気」を表してきています。
右を立てれば、左が立たず、左を立てれば右が立たないといいますが、右を認識して左を理解することができるし、左を認識して右を認めることができます。
「気」を見つけ出す過程の出発は、孔子も老子も 伏義の先天八卦を観て結果としての「気」を表しているのですが、その中間を進むところが大いに違うので違うように見えますが、互いに、人が生きていくときに必要だと言う真理を、孔子は 礼と仁に見つけ出し、老荘思想は、道「タオ」に見つけ出したのでしょう。
人の幸せを追求してゆくときに、体の幸せを探しだした物質から見つけ出したのが、孔子、孟子の孔子一派で有り、精神文化より、人の幸せを探求してきたのが老子、壮子一派だと思います。
こうして、孔子が見つけた「気」も老子の見つけた「気」も言葉や言い方が多く変化して混乱してしまいますが、内容は単純で、天地万物が存在するものすべてが持つ万有の力。すなわち生命エネルギーが「気」であると言えます。