蔡温がおこなった地理風水
久米三十六姓の蔡温
1682年 久米村 蔡氏志多伯卦に生まれた蔡温は、幼少の頃より、論語や儒教,四書六経を勉学し、
二十七歳の時 渡唐して、中国福州の琉仮屋 福州琉球館にて生活することとなりました。この時、琉球王朝より、地理風水を学ぶようにも言われてもいました。
久米村人がもともと。福州の技術者集団でもあり、幼少の頃より、風水の基礎は学んでいたのでしょう。
蔡温の日記ともいえる獨物語(ひとりものがたり)において、隠者に会い五か月の間に聖経を比較し実践的学問を習得したとしています。その時に、風水も学んでいたのでしょう。また、福州の劉霅(りゅうさい)に師事し、風水の奥儀を学んでいます。
福州省において3年間学んだのは、最新の学問としての風水を学び、多くの知識を蓄えていきました。
地図で見てもわかるように、日本本土と福州省はほとんど同じ距離に位置しています。当時の船旅で約10日の道のりでした。文化交流として、大陸文化を学んできたことは当たり前の行為だったのかもしれません。
沖縄首里城の風水
風水思想の選地法において四神相応というものがあります。天の東西南北それぞれに守護する獣神を地に下ろして反映させる方法で、最初に四神を表したのは郭璞でした。
四神相応には、山河襟帯(さんがきんたい)背山臨水(はいざんりんすい)蔵風得水(ぞうふうとくすい)山川道澤(さんせんどうたく)などがあり、琉球 首里城は 蔵風得水(ぞうふうとくすい) を基本に行っています。
沖縄の首里城の立地は、四方を海に囲まれ南北に長く糸満から辺戸まで120キロ 南北30キロほどの沖縄本島の中の南端の東西に延びる小高い狭い丘の上に立ち、東が高く西に低く傾き、高低が波打っています。型はしりもちをついたような姿をしています。決して、城として大きなものではありませんが、周辺の木々に抱かれた環境の中に鎮座しています。
首里城の前の広場には、明堂の留意点となり、蔡温のおこなった風水は基本、気をためて逃さない為に景観を整える風水として実践美学として整えられてきました。
沖縄特出すべき首里城の風水
首里城を明堂の地としてみた場合、
首里城を囲む水源としての真嘉比川側と、安里川の水をたたえ、城内は風をため込み水を得る蔵風得水の吉地です。
弁ヶ岳を玄武山として、城の背後に座して、豊見城連峰が青龍山となり、読谷村、北谷山が白虎山となり、首里城の城前に慶良間諸島(馬歯山)が案山、朱雀水としてたたえられた海の上に立つことで、良い気を蓄える龍脉 (龍脈)の上に立つ首里城として、「ここは、 龍脉 (龍脈)の鎮まる地である」と見たのです。
琉球の地理風水には、琉球人が、福建派として学んできたことを、琉球の大地に合わせて調整した内容がありました。
沖縄首里城は蔵風得水の型
さて、四神相応の地と言えば、北に玄武 青龍、白虎 朱雀の四神を治める地として表してきました。しかし、琉球の風水においては、首里城正殿は西に面して、小高い丘の曲線に合わせて、北殿、南殿はそれぞれに、南北に向いて、正殿から観会門はゆるやかに左右にまわりながら下っています。
このような風の通り道を作りながら良い気をためるため工夫がされていることは蔵風得水の理にかなったつくりと言えます。
しかしそれ以上に琉球人の思想的内容が深く浸透しています。そこで、琉球で行っている風水を行うまでの蔡温の考える風水を考えてみたいと思います。
古琉球の思想
地理風水を見る時にその地の相 地相をみる風水と言えます。郭璞の書には次のような詞(ことば)が記されています。
葬者乘生氣也 五氣行乎地中 然而生乎萬物、
人受體於父母本骸、得氣遺體受廕、
經曰、氣感而應鬼、福及人、
葬者は生気に乗ずる 五行の氣は地中をめぐり 万物を生む人は体を父母のムクロから受け 氣を得て体を育て のたまわく 死後の氣を受けて 人は福をなす。
“父母の命は大地に帰り 五行の気は大地をめぐり、その生気は 生きている子孫に影響を与えているわけです。“
蔡温がつかえた琉球王とは
古琉球人の根底には、琉球王は天であり、天は太陽であるという意味を込めているところがあります。
琉球王は天の代表であり、見えない天は、太陽という形で私たちを照らす恵みであり、琉球王は天を表す表現として、天の住む城は聖殿であったわけです。
太陽が出るのが、東であったため、東は太陽の座となりました。そのため、首里城の正殿は、神の座は東となり、門は見し向き、左右に北殿、南殿となりました。
蔡温が世譜(王の系列)について述べていることに、天地開闢(てんちかいびゃく)の当初、一男一女が生まれ、男は「志仁禮久」( しじんれいく )女は「 阿摩彌久 」( あまみきゆ )といい、二人が土石を運び、樹木を植え、嶽森(たけもり)を中心に琉球と島々を作り上げ二人の間に天帝子が誕生し、三男二女を生み、長男の天孫氏は17800余年続き、「御嶽崇拝」「自然崇拝」「元祖崇拝」を人々に教えたとしています。
蔡温は、琉球王に仕えることは、神に仕えることと考えていました。そこには、琉球の神に対しての 「御嶽崇拝」「自然崇拝」「元祖崇拝」 という崇拝する思いが強くありました。では、琉球の神とはどんな神だったのか
天下る神 オボッカグラ 海わたる神 ニライカナイ
琉球信仰の土台として、崇拝と畏怖を兼ねた神として天から下る神 垂直の神としての オボッカグラ がいて、聖地に立った時 そこに下る神でした。聖地としての首里城もまた、 オボッカグラ がおりてくる城でした。なぜなら、琉球王は、天の代表であり、天を表す天に住む聖殿でもありました。
天下る神、垂直の神に対し、水平の神、海わたる神 ニライカナイ がはるかかなたの海を渡る神としていました。垂直の神が下りてくるのが首里城 そして水平の神がわたってきて目指すのが首里城となり、オボッカグラ、ニライカナイ の神がであう場所が首里城でした。
中国で風水という言葉を表したのは 郭璞でした。また風水草創期において、地の相を見て、先祖の魂が血族を通じて、後孫に影響を与えるといった、天敬思想が風水を作ってきたこともあり、天帝、神を敬う思いが風水を発展させてきましたが、古代風水において郭璞が育つたところは聞喜県(現在の山西省運城市)であり、海より程遠い内陸部でもありました。内陸部でそだった風水思想を、海の上に立つ琉球において風水を扱う時に、基本を決めて、古来よりの 「御嶽(うたき)崇拝」「自然崇拝」「元祖崇拝」 と先祖を敬い後孫に幸福を与える風水が溶け込み、その地にあう姿へと変化し琉球風水へと変化していきました。
https://www.trivia-labo.com/book-of-burial/ここで、注意すべきは、基本としての風水のあるべき内容は、盤古 伏羲 文王 孔子が導き出した天の法則が基本にあって、琉球の地の相をみて行っていることを理解すべきであると考えます。そのためにも、その地に根ずく信仰観も理解すべきものがあると考えます。
蔡温がおこなった蔵風法
琉球に住む 久米三十六姓は渡来人であり帰化人でした。琉球に住み琉球を愛した 閩人(びんじん) といわれる人々の中には風水見( フーシミー )といわれる人もいました。蔡温も国の偉いさまですが、フーシミーです。村人の生活が良くなれば、国が良くなる。国の方針が良ければ国民も幸せにいられる。国王は豊かな国土と国民を願い、フーシミーに村々の不足を土地の相を観させて不足を補うように行いました。
地理風水は、古来、黄帝の玄孫 禹(う)がおこなってきた土地の開拓です。
琉球の村々には、寒い北風を避けるために、北に坐山となる山を背にするつくりが多くあり、東西に木を植え、風をよけて、風をためこむ工夫として福木(ふくき)を植えています。また、南にむかってなだらかな坂を作り、緩やかに気が流れる道を作ることで、背後が高い状態を作り、背山蔵水、背山得水の風水思想にもとずく家屋がたちならび 家の中にある森、クサテノムイができあがるようにしました。
夏の陽の風、季節風が家の中を通り抜けるために南面には障害物がないようにして。冬の陰の風は、冷たいため、北に防風林を植えて台風の多い琉球では、北北東から東には、福木を植えることを進めている。
高い山がなく 勾配が平たんな琉球では、玄武山 青龍山、白虎山を人工的に作るのに南側を削り、青龍砂、白虎砂を 福木を植えることで風のたまり場を作りました。
福木とは、オトギソウ科の高い木で10m以上の高さになります。
蔡温がおこなった抱護(ほうご)
沖縄は、南国特有の台風による高波、塩分を含む横風を受けて農作物が育たない環境でもありました。今のような観光大国でもない古琉球は、明王朝との冊封朝貢体制をくみ貿易をおこないながら生きていた小国でした。
そこで蔡温がおこなったのが、塩害に強い 松を植え、家を囲むように福木を植えて、冬の寒い季節風から人々を守り、 抱護(ほうご)でした。家を守る「屋敷抱護」,浜からの高波や、塩害を食い止める「浜抱護」,村全体を保護する福木の並木による「村抱護」,資材の少ない琉球のエネルギー確保のための「間切抱護」と蔡温は国の環境を整えてゆきます。
地形を生かし、林帯を築き上げることで、蔵風得水の地を作り上げてゆきます。それは、住む人々にも良い影響を与えてゆきました。
赤いレンガと 緑の増えて村は、見る目にも美しく、穏やかな海は美しく自然の温かさを感じさせる景色へと変貌してゆきます。
風水が琉球文化としての 昔からの 「御嶽(うたき)崇拝」「自然崇拝」「元祖崇拝」とが溶け込み中華、明王朝でもない、大和文化にもない、琉球王朝文化へと変わってゆきました。
蔡温の風水実践 – 琉球の自然環境との調和
古代中国から渡来した蔡温は、琉球王国の地理風水の専門家として重要な役割を果たしました。彼が主導した風水思想の実践は、単なる形而上学的な理念にとどまらず、琉球の自然環境との調和を目指す具体的な取り組みとして展開されていきました。
その中核となったのが、「抱護(ほうご)」と呼ばれる取り組みです。抱護とは、家屋や集落を自然災害から守るための工夫で、松林や福木(ふくき)の植林などが行われました。特に、海沿いの集落では「浜抱護」と呼ばれる防風林の造成が重要な役割を果たしていたのです。
また、蔡温は治水事業にも注力しました。首里城の水源である羽地大川の改修工事では、風水の原理に基づき、川の蛇行を活かした緩やかな流れを実現しました。洪水被害に悩まされていた川を改善し、安定した水資源の確保につなげたのです。
このように、蔡温は、琉球の風土に根ざした具体的な対応策を講じることで、自然災害から人々の生活を守り、持続可能な地域づくりを目指したのでした。彼の風水思想は、決して机上の空論ではなく、生活の場での実践的な知恵として活かされていたのです。
羽地大川治水工事
琉球は南国特有の台風の通り道にもなっていて、風雨による被害も多い地域でした。
1735年7月の台風は琉球王国に甚大な被害を及ぼし、 羽地大川の治水工事を言い渡された蔡温は、風水における陰陽五行を描き、数日の測量により、改修工事を行いました。
河川は湾曲してゆっくりと流れるのがよく、地形を金形に寄せることで、緩やかな川の形を作り上げました。
羽地大川は、首里城の飲水でもありましたが、玄武山より流れる龍脈の気がおさまる穏やかさと財運を上げる必要がありました。
国が豊かであってこそ、国民を豊かにできると考えています。国が形成されるための政治。国土、国民がいてこそ豊かな国造りになると蔡温は、考えていました。
そのため、度々来る塩を含んだ風雨、激しく流れる河川は、荒れ狂う龍であり、荒れ狂う龍は、国を壊し、国土を壊し、国民を悲しませてしまうものであるため、 羽地大川治水工事にかける思いは、切実なものでした。
河川は湾曲させ、川筋を順流として、川に流されにくい亀型土塁(かめがたどるい)を橋台として、堤防を築き上げました。これは、蔡温の施した風水術として、具体的に形にしてきました。
河川の形状を五行に当てはめ、 河川の土塁を作り、湾曲の穏やかな暖流に作り変え川幅により、金星形、水星形、 金星形水星形混合型と選び河川の水の流れを調整し、首里城から見える景観としても美しいものとして作り上げてきました。
羽地大川
風水の景観については合わせてお読みください。また、首里城内の雨水の廃水処理を施し、土石が投げれないよう、水の逃げ道として、龍が飲む水飲み場としての池として西殿の京の内に雨水涵養(あまみずかんよう)を作り、地下に水を流すようにしました。
水気の三合
東西南北を12支分割して、「水気において、水は、申に生じ,子に壮んに、辰に死す。三辰はみな水なり」3っの方向からの気を集めることで、一つの強固な気の塊とするもので、金星決水、金水決水に用いられた。
琉球王朝の歴史
1609年、日本が戦国時代の終結にさしかかる頃、薩摩の島津家久(しまずいえひさ)の命により、家臣、樺山久高(かばやまひさたか)ひきいる3000人の兵士をつれて、琉球出兵しましたが、琉球王朝 尚寧王(しょうねいおう)は抵抗することなく。首里城を明け渡し捕虜となりました。
島津家久に対して、徳川家康は、琉球を薩摩藩に統治させましたが、 その反面、尚寧王(しょうねいおう)にも、琉球王朝としての存続の許可も与えました。そのわけは、琉球と明王朝の冊封体制をおこないながらもそれなりの位置関係もあり、秀吉がおこなった朝鮮出兵の目的が、明王朝にケンカを売っていたことに対する仲介役を願っていたこともありました。
徳川幕府が薩摩藩に統治させる以前、1392年、琉球王朝には、明の第一皇帝、洪武帝の命令により、学者や、航海士の技能集団が来琉し、久米三十六姓として、琉球に帰化し久米村に滞在していた、くにんだんちゅう(久米村人)と呼ばれ琉球と中国の外交、貿易 航海に従事する日本に帰化した閩人(びんじん)がいました。
蔡温の一族は、現在の中国福建省から、琉球に移住、帰化した 久米三十六姓のうちのひとつでした。
琉球王国の立場
江戸時代に入ってから、琉球国は、薩摩藩に取り込まれた形態をもちながら王朝を存続した小国としての機能を維持し、薩摩藩に対して支配を受けながら、明王朝との冊封朝貢体制を維持するという国として、苦渋を飲み、二人の主人に仕えるという苦難の立場を迎えるようになります。
この時代において、建国以来、中国の文化としての四書六経を学び儒教精神を母体としてきた古琉球の精神的支柱に風穴があき、大和文化といえる武芸、志士としてのサムライ文明を受け入れ新たな文明文化を受け入れることにもなりました。
そこには、琉球人に、算勘(さんかん)筆法(ひっぽう)謠(うたい)医道、庖丁(ほうちょう)容職、馬乗、唐楽(とうがく)筆道 立花(りっか)という芸のいずれかを身に着けるようにという教育を受け、古琉球から、新琉球という大和よりの文明文化が吹き込まれました。
冊封朝貢体制とは
☆中華の歴代王朝が東アジア諸国の国際秩序を維持するために用いた対外政策。
福州人が琉球に入所したり、中国皇帝に琉球王朝より貢物を送るなどしていたし、返礼の貢物もおおく受け取っていたこともあり、現代の中国において、古琉球は中国の属国であったので沖縄は中国のものであると言っています。
しかし、古琉球においては、国としての交流、貿易であり、中国の一地方国家ということは絶対ありえない。
あくまでも、国としての交流の中で行っていたことであることを認識すべきである。
薩摩藩支配下での琉球王国 – アイデンティティの維持と発展
16世紀以降、薩摩藩の支配下に置かれた琉球王国は、明王朝との冊封体制を維持しつつ、大和文化の影響も受け入れざるを得ない複雑な立場に立たされることとなりました。こうした状況下で、蔡温らは古琉球の伝統を守り抜きつつ、新しい文化の受容にも前向きに取り組んでいったのです。
薩摩藩の支配を受けた琉球王国は、武芸やサムライ文化といった大和文化の影響を受け入れる必要に迫られました。一方で、明王朝との冊封関係を維持するため、四書六経に代表される中国の文化規範も重要視し続けなければならなかったのです。