文王の生い立ち
文王は、父 季歴 母 太任の間に生まれました。小国の生まれで、紀元前1152年に誕生しました。誕生する前から、吉兆が多く現れ、祖父の古公亶父(ここうだんぽ)が一体どんな子が生まれるかと大いに期待し、「生まれるこの子によって、周は栄えるだろう」といった逸話が残っています。
まさに、お釈迦様が生まれるときに 王妃のお腹に白い象が入る夢や、吉鳥が舞い込んで住み着いたりと子供が生まれる時の吉兆は、文王が生まれるときにも多く見られたのでしょう。
文王は、姓を姫(き)名を昌(しょう)と言いました。周を建てた王として周公とも呼ばれています。周の王国の王様ですが、義を重んじ、礼を怠らない素晴らしい善王であったので、周の王 文王と呼ばれました。
さて、文王が生きた時代 紀元前 1100年頃は、中国全土での小競り合いも多く 文王の治めた周は、曽祖父、古公亶父を周王朝初代武王にして、周辺国家との間に、微妙なバランスでたてられた国でした。後に段(だん)を滅ぼし 太公と尊称されましたが、それは、後の話、
文王の生い立ちは、苦渋の選択を強いられた人生でした。殺害と殺戮 裏切りと告げ口多くの悪態をつくいわれなき中傷罵倒。多くを受け、周辺諸国とのバランスは恐ろしくも危険な状態で、幽閉されていた息子を殺され、息子の肉片入のスープを送られてきたとされています。
文王は、姓を姫(き)名を昌(しょう)紀元前1152年に誕生
吉兆は、文王が生まれるときにも多く見られた
「生まれるこの子によって、周は栄えるだろう」
礼を重んじ、
文王の生い立ちにおいて、国民を大切にした祖父の影響も多く受けていて、国民、国土を守るために、礼を施し、老人を大切にし仁政(じんせい)を行い国を豊かにしました。しかし、周辺国家の大国、段の帝辛(ていしん)が、三公の一人、を細かく切り刻み干し肉にし恥をあたえ、氏族に食べさせたり、文王の長男を生きたまま、煮殺し、そのきざまれた長男の肉汁を食さねばならないほどの苦渋を行けています。
そんな状況に陥ったら皆さんならどうおもいますか?、
小国であっても国家です。国家は、国民と国土があって、法や、規律で国を治めますが、そこには権力を持つ人物いかんにより、国の質が問われていきます。
一時の幸せも与えられないほどの状態に置かれた人間は悲惨を絵に書いたように判断を間違えます。国のリーダーが自暴自棄になったらどうなるのでしょう。
しかし文王は、祖父の古公亶父(ここうだんぽ)にならい廟での祈りを捧げ、礼を尽くしました。
これは、後の話ですが、善王としての文王を非常に崇拝したのが、孔子でした。孔子はこのように礼を尽くす善王としての文王を敬い、文王が好んだ菖蒲(しょうぶ)の漬物を自らも食べて、文王になりきろうとしましたが、そのまずさに卒倒します。後に菖蒲の漬物を食べれるようになりますが、3年の期間を費やしました。
自分なら、卒倒するほどのまずい食べ物、いくら尊敬し、大事に思う人が好きでも食べません。しかし孔子は大好きな文王を真似て食べれないものも克服していきました。
善王としての決意と軍師太公望
三国志の中でも、戦時下での食料不足など、究極の飢餓状態のある村の庄屋に泊まったが出す食べものがない。それで庄屋は妻を殺し、その肉で料理を作り出して接待をしました。人肉接待に劉備が感銘をうけた話があります。劉備はそのまごころに感動し感銘を受けたのですが、文王の話はそうではありません。
長男の肉を食べなければならない環境というのは、尋常な世界ではありません。まさに、人の恨みは、骨肉にしみるほどの生き方をしなければならない時代であったのでしょう。そのような環境であったので、文王は、平和な世界を作るために周の国家を立てる時の思いは、並々ならないものであったのでしょう。
文王の生い立ちの歴史には、、段の帝辛の激高に触れ、幽閉された時期がありました。
その時期に 伏羲からつながる易学を多く編纂し人民がわかるように爻辞(こうじ)を作成しました。
そこには、天才的戦略家で 魔術師のような側近にも恵まれました。軍師 姜呂尚(きょう ろしょう)、太公望といったほうがわかりやすいでしょうか。
(文王が呂尚の事を「太公が望んだ人だ」として「太公望」と呼んだという逸話もあります。)
伏羲からつながる易学を多く編纂し人民がわかるように爻辞(こうじ)を作成しました。
軍師であり戦略家として、奇門遁甲を扱い天体、地理に長けていました。有名な戦略家が天体、地理に長けているのは三才観 天の時を知り 地を治め 人を正すことでゆくべき目的を明確にしているからです。
そこには、優秀な側近としての太公望が使えていたところから見ても文王の才覚と人格がうかがえます。
古公亶父の愛情を引き継ぐ文王
文王のおじいちゃん大王で、とても人格の優れたじいちゃん大王でした。異国の民族に襲われたときは、戦わず 山河に引きこもった大王で、人の良い周の文王のおじいちゃんです。文王が生まれてくる前から、非常に孫の文王を愛していました。その愛情と、思想を引き継ぐ文王も。善王として生涯を終えます。
親の徳が花咲いた王でもありますが、試練も多く、先に書いたように幽閉もされ、息子を殷王朝(いんおちょう)の帝辛紂王とその妃 妲己(だっき)の宴の催しとして煮炊きにされ、息子の肉片入りスープを飲ませられるなど。多くの苦渋を受けた。
しかし、そんな環境であっても国民あっての国土 国土あっての法であるという、古公亶父、文王のおじいちゃんの思いは、孫の文王 ひ孫の武王に引きつがれていったのでしょう。
文王の生い立ちの中で見つけた秘術
文王の後天八卦
文王が見つけ出した八卦は、後天八卦と言われています。後天八卦の並びは、伏義の先天八卦とは並びが違います。詳しくは、先天八卦と後天八卦の違いを観ていただくと詳細を綴っています。
文王、後天八卦の並びは、「乾・坤・震・巽・坎・離・艮・兌」となり 乾・坤 という 乾 (父) 坤 (母)卦を起点に八卦図が作られています。
文王の時代の亀卜
文王の父は善良な王で戦を好まず、戦いになれば逃げて国を作っていました
文王の子、武王は、六〇〇年続いた殷王朝(いんおうちょう)を打ち破り、紂王(ちゅうおう)と妲己(だっき)は打たれ巨大な政権を滅ぼしました。そこには、曾祖父、古公亶父(こうぽたん)祖父王季 父文王の並々ならない苦労が重なり、武王が周王朝を作る道を作りました。
さて、今回は、文王の話を中心に話しますが、 祖父、古公亶父 父 王季 文王までは一介の地方の首長にすぎません。王と名乗っていますが、文王の子武王が政権を取り周王朝を築くことにより、名をあげ、文王の思想が広まったともいえます。
と言っても、文王の功績は広く伝えられるべき内容であったがゆえに世代を超えて、家族4代にわたる苦労の結果でもあります。その背景には、事あるごとに天に対してうかがう姿勢がありました。
国を建てていくのに占いかよと思うかもしれませんが、この時代占うというのは、最新の科学であり、文化でした。天啓を受けるというのはたえず善でなければなりませんでした。
自分の行いに対して少しでも悪に染まる心があれば、天啓は受けれないというほどシビアな思考が要求されていました。であるために、文王は自分の王妃を選ぶのも、亀卜(きぼく)ででた吉凶にて、太姒(たいじ)を王妃として多くの子を設けました
文王が事あるごとに 亀卜(きぼく)を行い天啓を求めてきたのには、祖父母の影響が大きくかかわってきていますし、母王としての太任(たいじん)の天に対しての深い信仰心もありました。文王がおなかにいる時より胎教を行い、その瞳は汚れたものを観ない、不穏な音を聞かない。その口はおごり高ぶることを言わず祈りをもっておなかにいる文王を育て上げました。
殷王朝(いんおうちょう)紂王(ちゅうおう)
殷王朝 紂王は頭もよく、機敏なうえに腕力ある王でした、家臣が忠言したとしても、知恵深く弁舌であったため、非があったとしても蛇のごとくすり抜ける狡猾さがありました。
このように個人としても才があり、膨大な国を治める暴君でもあったげ、その国の民もまた暴君に似て、頑固であり、武王はこの民を 「殷の頑民」と呼んだ。
文王と六四卦
殷王朝 紂王により、幽閉されていた期間に六四卦を編み出したと言われるが、実際定かではありません。文王が生きた時代は現代よりも程遠い一昔ふた昔前の人物の内容です。
紀元前12年と言えば、西暦2000年から数えても3000年以上前の話です。日本が縄文時代と言っていた頃に八卦、六四卦と言っていたのです。今の現代人が アマゾンの首狩り族を見ているようなものです。理解の仕様がありません
周王朝時代において、易学は知識人の必要アイテムでした。
運命の変換は、伏羲の表す陰陽で決められ、女性的、男性的、二種類の生気の変換による作用であると考えたわけです。
冬至が来れば陰の気が最も長くこの日を境に陽の気が伸びる 夏至が来れば陽の気が最も長くこの日を境に陰の気が伸びるので、一年を通じて陰陽が変換を繰り返すと考えて、八卦を活用してきた期間でした。
八卦を重ねて六四卦にするということで、今まで単調であった八卦の世界に色が付き色彩が広がる卦となったわけです。
ですので、文王朝時代にでてきた六四卦は、ある意味啓示であったかもしれません。
啓示を与えるには、啓示をあたえる者と受けるものの2者が必要です。ですので、受けるものが文王であり当てえるものが、天帝であり、天であり、神であったと見た方がいいかもしれません。