運とは何か、
私たちが、普通に生きていても、必ず終焉をむかえまます。誰一人として、長生きしたいからと不死を願っても、100年の節目を越えて生きてはいけません。
しかし、100年生きる中で、誰しもが、幸せに生きたいと願います。不幸に生きようと願うひとはいません。一時の自暴自棄におちいって「俺は不幸に生きちゃる」と思う人がいうとしても、心の根底では、よりよく生きたいと願います。
こうしていきていくと、運がいい、運が悪いと誰しもが考えますし、よく生きるによい方法を実践し生きている人は少なからずいます。
高校球児、野球人 スポーツをする人などは、技術、実力がありながらも。日々良い運に恵まれるようにとルーティンを繰り返すこともあるでしょう。
歴史学者、哲学者
さても、多くの歴史学者、哲学者、思想家、科学者と様々な人が、いままで運について、討論し、議題として考えてきたりもします。私たちも運について考えたりもしますが、いまいちつかみ取れない存在でもあります。
スポーツ選手たちが、実力があっても、最後には運任せにすることがあるのを見ても、自らコントローるできない代物として私たちの生活に影を落としますが、この運をコントロールできるのなら最強の存在になるでしょう。
であるがゆえに、歴史学者、哲学者、思想家、科学者と様々な人が研究していることから見ても、人には計り知れない「運」があるんでじゃないだろうかと考える人も多いのではないでしょうか。
日々の生活
私も、朝すっきりと起きれる日。起きれない日。ご飯がおいしい日。食べたくない日。と日々ころころと変わりますし、ちょっとした言葉の行き違いで、気分が落ちたり、子供の言った一言で、愛を感じて晴れ上がったりと、自分の心を見ても一日のうちに、富士急ハイランドのジェットコースター並みに右に振られ、左に振られ、上に下へと乱舞するだけで疲れてしまいます。
本当に一人の人間として、日々の生活で一喜一憂(いっきいちゆう)しながら生きています。気分を上げようと音楽を聴いてみたり、気分を変えようと、好きな映画やドラマを見て気分の転換を図ったりますが、悲しいときは悲しいし、苦しいときは苦しくなります。
会社の成功率の研究
アメリカなどで行われている、脳科学、行動統計学においても、テキサス大学オースチン校においてスタートアップ、エコシステムの研究においても、会社の成功は幸運に恵まれたことにより発展したという研究論文が出ていたり、大学の教育機関と投資家などのビジネスパートナーとのマッチング、ネットワーク活動、コワーキングスペースを提供により、成功率が高まるといった結果が発表されたりするのを見ても、スポーツ、ビジネスの世界においても、研究対象として調べられていることを見ても、「運」によっての成功率が高まる事がわかります。
目に見えない運の研究
私たちの生きる世界は、目に見える者より目に見えないものの方が断然に多くあります。子供の頃より大人になったときの方が断然 世界が広がりますし、年齢を重ね経験値が多くなれば人間的にレベルは上がります。
でも、まだそんなに多くのことを見分できません、しかし、私たちの脳(のう)は一日だけ生きていても、耳からの音、目で見る映像、肌から受ける刺激ととても多くの情報を処理しています。こういった脳科学においても運について研究されています。
運を科学的なアプローチで見てみると見えてくることは、日々、運のいい人がおこなっているルーティンがあります。日々同じことを繰り返すことで、習慣化することで運を呼び寄せています。
運も見える部分は、氷山の一角と言えます。
日々より良く生きていくことで、良いめぐりあわせが巡ってくることで、「運」はよくなります。表に出てくる「運」はまさに氷山の一角と言えます。
こういった「運」というのはいったいどこから来るのでしょうか。そもそも、「運」とは何でしょうか。古代中国において「運」に対して伝えてきているものがあります。それは。郭璞(かくはく)の書 「葬書」(そうしょ)です。
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『葬書』内篇本文譯
葬者乘生气也。、五气行乎地中,发而生乎万物。人受體於父母本骸、得氣遺體受廕
葬ることは生気に乘せることである。
しかるに、五行のそれぞれの気は地中をめぐって、萬物を生み出しているからである。人はその身体を父母の骸骨より受け、気を得てその身体を全くして、父母の廕(たすけ)をうける。
運は、父母のムクロから、気になってやってくる。
私たちは、目に見えないものは信じないし、科学的でないことは信じられません。と言っても、私たちの生きる世界は、目に見えるものより、圧倒的に、見えないものの方が多くあり、科学的、非科学的と言えば、まだ解明できない事の方が多くあります。
と言っても、私たちの生きる世界は、非常に秩序正しい、法則性も存在しているのも事実です。私たちの生活の中には、経験により生み出したものも多くあり、おばあちゃんの知恵袋の方が断然いいということもあります。
国が違えば、お金持ち
私たちは、日々、生活に追われ、お金に追われ、やれ教育費だ、やれ、電気代だ、スマホにお金がかかる、ゲームで推しのキャラクターに課金だと目まぐるしく生きていて、ある時ぷっーんと 切れて、何なんだ、俺の生き方は、となります。日本で10万では生活が難しく、20万あってやっと、30万あれば何とか子育てできるかなと 毎日、様々なインプット、アウトプットを繰り返します。
しかし、日本で稼いで、ベトナムに帰れば、10万円で豊かに暮らせます。フィリピン、中国、国が変われば、豊に暮らせます。かといって、外国に行ってまで暮らしたいと思いません。
それは、生活するのに大変なのに、少し歩けばコンビニがあり、だるいと言って横になり、クーラーの効いた部屋で、ポテトチップスををぼりぼり食べて、 汚れた服は、洗濯機で洗い、60階の高層ビルでも、階段を上らないで、エレベーターでスっつと昇っていけます。
一昔前の映像がテレビに映し出され、お釜で、火をおこし、ご飯を食べるのも一苦労する時代を映し出すのを見て、電子ジャーのスイッチをポンと押します。
便利なものは使う
こうしてみると、私たちの幸せや、「運」の大半が、周りの環境の変化で左右されていることがわかります。環境がワンランク上になれば幸福感が増します。私たちは世界にも類を見ない先進国として発展し、こんな小さな資源のない国でありながら、
世界100位に入る会社が多くあります。私の生活の中でも、車だけでも10社ほど、この国にはありますし、ゲーム機だけでも、ソニー、任天堂 セガ ドワンゴ パズドラとハード、ソフトにおいても多くの会社が台頭しています。
科学の分野、物理学 といったノーベル賞学者が多く出ています。人が学ぼうと思えば、いくらでも環境を選べる良い国に生きています。 便利なものは、いくらでも増えて、人が生きる環境を整えてくれています。
わたしたちの判断
私たちは.同じ日、同じ時間に生まれても,一人として同じ人はいません。環境や、周辺から受ける影響を多大に受けます。しかし、心は自由です。想像して大きな家に住むことを願うこともできますし、天体望遠鏡をのぞき込んで 宇宙の果てに思いを飛ばすこともできますし、顕微鏡を見ながら、小さな生き物や、金属にも命があることを思いながら生きることもできるし、赤毛のアンのようにおしゃべりして、想像の羽根をのばして飛ぶこともできます。心は自由です。
ポジティブに生きることも、ネガティブに生きることも自由です。しかし、体は拘束されます。日本に生まれれば日本人、イギリスに生まれればイギリス人、イスラエルに生まれたなば、コーランを覚え、中国に生まれれば、毛沢東を学び、国の栄枯盛衰により、私たちの生活は変わります。育つ環境により、人生観はおおきくかわります。
運の栄枯盛衰
このように、個人の運より、国の運が優先されるのを見ても、自然界の法則性を垣間見ることができます。自然界は、弱肉強食の世界ではありません。小さなものは、大きなものに吸収され、エネルギーが変換されますが、大きなものは全体のために変化し吸収される循環型の世界です。自然界の中で、異質なのが人間です。
しかし、もっと、文明文化が育てば、循環型の世界にピースが合わさって、より豊かになるでしょう。そうなったとき、「運」もまた、循環する世界に合わさり、それぞれの人が、自分の「運」は、個人の運だけでは解決できない、より大きなものに吸収され、より発展するのではないでしょうか。